母は自然死を選択した


母を亡くす事こんなにも寂しいとは知らなかった

この一行が胸が詰まって書き出せなくて
誰もが お母様を亡くした寂しさを話してくださる時

必ず涙目になるのも やっとわかりました

母は85歳 令和1年10月20日に息をひきとりました。

前日まで 家族と笑って会話していて  眠ったまま

すっと息をしなくなりました。

お葬式は 令和のパレードの日で 輝く天皇陛下を葬儀場のテレビで見ていました。

とても個人的なことだし

書こうとすると

感情は 落ち着いているのに 自然に涙が溢れてくるから何度も挫折したけど

2019 令和の始まりに 母が亡くなったことを書いておこうと思います

母は 自然死を選びました。

最後まで 自分の意思があり 食べられなくなっても 胃瘻を拒みました。

胃瘻とは 胃に直接栄養を送り込むチューブを装着すること

9月徐々に 食欲がなくなり

施設でも  おかゆ ミキサー食や とろみ など工夫してくれたり

熱中症 脱水が心配なときには 点滴をしたりもしましたが

本人が 食べたくないと拒むのです。

本人が延命措置をしないで

徐々に 食べられなくなり

枯れるように亡くなること 自然死というそうです

余計な水分が無くなることで  浮腫んだり たんが絡んだりせず

本人はとても楽 なんだそうです

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この写真は7月 とっても元気でした

私が その時 様々なサイトを検索して 参考になったのが

たんぽぽ先生のサイトでした

目の前で 元気でいるのに 死に確実に向かっていることが信じられなくて

ほんとうに 母は

自然死 でよかったのか、、、 あの時無理やりでも 胃瘻にしていたら

生きていたかもしれない

5年前より 変性小脳****という 原因はわからない難病で

脳の小脳 歩く 体を動かす 食べる 話す を指令する部分が

萎縮して徐々に 動かなくなる病気でした

それまで 病気らしい病気もしたことがなく 健康だった母が

外出を億劫がったり 足の動きが悪くなったりしていました。

この難病のせいだとわかったのは

転倒して大腿骨骨折で 入院して検査の結果 やっとわかりました。

骨折の退院から

リハビリに取り組んで 杖や 手すりを使って 歩くことができたのが1年くらい

徐々に 足が動かなくなり 車椅子へ

やがて父と介護ヘルパーさんとの自宅介護生活も

困難になり 母一人 自宅から徒歩3分の施設に入りました

父は自宅から 母の過ごす施設に通う日を2年ほど続けましたが

母は 歩行は困難だけれど 認知症もなく 元気でした

父の認知症がすすみ

幸いにも 2人で同時に入れる施設が空きが出て 1年前に 夫婦一緒に入りました。

父は 私に騙された と言いながらも 全く別人物になりました

母と一緒にいる安心感と 多くの人と関わり

衣食住 全て満ち足りてくると 人は穏やかになるんだなと実感

それまで 頑なに

他人の助けを借りようとせず 自分でやる!と頑固一点張りで

ヘルパーさんに頼んであることは大丈夫だけど

寒い日に 暖房もつけず 暑い日にクーラーもつけず

寒さや 暑さを感じなくなってしまう。お風呂もめんどくさくなる。

同じ物ばかり着ている。自らやることは 全くダメで

他人を寄せ付けなかった。

父の方が 社交的なんですよ とケアマネージャーさんに言ったら

驚かれたくらい

その父が 施設にお世話になって お風呂やお食事やら満たされて

穏やかな姿になって 得意の社交的を生かして友達も多く作っていきました

その矢先

母が9月 徐々に食べられなくなったのです

複数の医師とも会った 胃瘻しかない こんなにはっきり意識がしているのだから

胃瘻すべきだ という 先生

胃瘻の意味をよくわかっていないかもしれないと

母は よく知っていました。

食べられないのなら 即 胃瘻にしましょう。それしかないでしょ。という医師

病院も 点滴も 手術も嫌だという母

胃瘻にしないのなら 総合病院では何もすることはできない

せめて 点滴してほしい と 往生際の悪い私

なんとか 少しでも回復させる方法はないのか

処置室で 点滴をしてもらおうとするけれど 針は刺さるけれど

点滴の薬が 全く入っていかないのをみた。

点滴ができないことがあるんだなぁと

家族で迷いに迷うけれど 本人がはっきり嫌だという以上

何もできずに

施設の看護婦長さんやいつも見ててくださる看護師さんも加わってくださり

どうしたら良いか 何度も話し合いもしました

その後も アイスクリームを少し口にするくらいで

弟に お父さんをお願いねと ちゃんと頼んで

本人は 穏やかな顔をしている

最後の最後は 自分の意思で 選択して 決めた母

潔よく カッコ良かったです。 私の方が寂しくて心残りでダメだけど

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私の両親は 父は新潟県出身  岐阜県大垣市の紡績工場に就職して

母は同じく工場勤務していた叔母を頼り 大垣に遊びに

来ていたところ 父の猛攻アタックで 結婚しました

岐阜県大垣市の紡績工場の社宅で 私と2つ下の弟と4人家族

母は 田舎者だし 学歴もないけれど

どこか 品があってお洒落さんだった

小学生の時は 母が 私のほとんどお洋服を作ってくれたり

近くにお住まいの

キリスト教会の方から パウンドケーキや クロワッサンの作り方を教わり

自宅で焼いてくれた 私にはそれが自慢だった

母の実家は 青森の大きな林檎農園やらいろいろ手がけながら

地元町長さんを代々世襲していた裕福な家ながら

母の実母が 母と妹 弟を残して早くに亡くなり

継母を迎えて そこから大変辛い目をしてきたという

まるで シンデレラのような子供時代で 詳しくは母の妹 叔母に聞いた

生前は ほとんど自分の幼少のことは話さなかった。

そして 主婦として 私と弟 2人の母として生きた。

母は 幸せだったのだろうか・・・と思う

今なら

妻 主婦 母 以外の何か残せるかもしれないけど

母には 生きた証は 私たち子供しかない。

もちろん 生前お世話になった方達も多く 何かあるのかもしれないけれど

でも 究極 母は私の中に 残っていくんだなと思う。

何を思い出しても 母の愛情を思い出す

母の生きた証 大きな愛情を抱きしめて生きていきたい。

余談 父が2週間前に 施設を脱走した

夕食後の忙しい時間 2階の自室の網戸を蹴破り

避難階段から外へ

母の遺影をもち 近くの大きなバイパス大通りを渡り

ガソリンスタンドで 電話を貸してほしいと

どこに電話をするんですか?と聞かれて

答えられず そこで警察に保護された

きっと 母と自宅に帰ろうとしたのかもしれない。

私が 電話したときには そのことをいうと

知らないという

ま 知らなくて ちょうど良いのかなぁ

施設の方や警察の方には大変お世話になって申し訳ありません。

その後は しばし 大人しく 穏やかな様子です

人が生きていくこと

老いるということ

死ぬということ

両親が教えてくれること 受け止めていこうと思う

時間と共に 思いが変わるかもしれないけれど

周りで支えてくれる 弟家族 叔母家族 施設の担当者さん 看護師さん

ケアマネージャーさん たくさん助けてもらってありがとうございます

心から感謝です。

読んでくださり ありがとうございます

これで 新たな年に 明るく前を向いていこうと思います。

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中村ゆかり

中村ゆかり

株式会社五龍舘 代表取締役社長 長野県白馬村にて ホテル五龍館(ごりゅうかん)を経営する 前職は、百貨店にて外資系化粧品の販売を12年。結婚し白馬へ。 4代目経営者となる。家族は主人と娘2人です 食べること飲むこと大好き!絶賛キッチンドリンカーです 大学の国際観光学科の講義やゼミ生と観光イベント実践のお手伝いもしています。

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